人物

川端康成

川端康成(かわばた・やすなり)さんは、新感覚派と呼ばれた文学運動を起こした大正・昭和期の小説家です。「伊豆の踊子」「雪国」「山の音」「古都」「眠れる美女」などの代表作があり、日本で初めてノーベル文学賞を受賞したことでも知られています。ここではそんな川端康成さんのプロフィールを紹介しながら、その人物像に迫ります。

山本 光代

目次
Yasunari Kawabata

プロフィール

川端康成(Yasunari Kawabata)さんは1899年6月14日大阪生まれ。東京帝国大学を卒業後、1924年に横光利一らと「文芸時代」を創刊し、新感覚派の旗手として文壇にその名を轟かせます。彼の作品は虚無を纏いながらも日本の古典美を抒情的に描き出すスタイルで、「伊豆の踊子」「浅草紅団」、そして「雪国」など、数々の名作を世に送り出しました。特に「雪国」は、抒情文学の極致として讃えられています。

雪国(1957年 東宝作品)映画ポスター

雪国(1957年 東宝作品)映画ポスター

写真は muuseo.com より

川端さんは評論家としてもその才能を発揮。日本ペンクラブの会長、国際ペンクラブの副会長として国際的な文化交流に努め、若き才能を見出し、育て上げました。日本近代文学館の設立にも尽力。1961年、その文学的成就を認められ文化勲章受章、そして1968年には日本人初のノーベル文学賞を受賞するという栄誉に輝きます。彼の作品は、孤独と悲しみを纏いながらも一瞬の美しさを捉えることに長けており、その文学は時代を超えて今なお多くの読者に深い感銘を与え続けています。

プライベート

川端康成さんは医師の父・栄吉、母・ゲンの長男として誕生。1歳7か月の時に父の結核の病状が重くなったため、母の実家近くの大阪市東淀川区に夫婦で転居。母も結核に感染していたため、川端康成さんは母の実家に預けられました。しかし、1901年に父が、1902年に母が結核により亡くなってしまいます。両親と死別して3歳から祖父と祖母に連れられて大阪府茨木に移ります。その際、姉の芳子は母の妹の婚家である秋岡家に預けられ、川端康成は姉と離ればなれに。1906年には祖母が、1909年姉の芳子が、1914年には祖父がなくなり、天涯孤独の身となってしまいました。

幼い頃の川端康成さんには一種の予知能力のようなものがあったそうで、探し物の在りかや明日の来客を言い当てたり、天気予報をしたり、小さな予言をしたりといったことをしていたそう。そのため神童と呼ばれることもあったんだとか。小学校では成績はトップで作文が得意、絵も上手でした。小学校の図書館の本は一冊ももらさず読んだということ。武者小路実篤などの白樺派をはじめ、上司小剣、江馬修、谷崎潤一郎、ドストエフスキーなどの本を好んだということです。

川端康成の家族だ

(左)川端 (中)妻 秀子 (右)養女の政子(麻紗子) 1954年

写真は ameblo.jp より

人を長く見つめる癖があり、ある若い女性編集者が訪ねた時、30分間何も話さずただじっとじろじろと見た、というエピソードが残されています。この時、編集者がついに堪えかねて泣き出したのに対して、川端康成さんは「どうしたんですか」と言ったということです。また、いつもツケで飲み歩き、ツケがきかなくなると、編集者や作家仲間を呼び出して払わせていたという話も。「伊豆の踊り子」を執筆の際も、宿泊していた旅館の4年半分の代金を1円も払わなかったということです。亡くなった後、約200点を超える美術品が残されていたということですが、方々に借金やツケも残されていたということ。

川端康成さんは名言を多く残しており、「人間は、みんなに愛されているうちに消えるのが一番だ」「死んだ時に人を悲しませないのが、人間最高の美徳さ」「別れる男に、花の名を一つ教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。」などが有名です。なお、祖父を亡くすまで住んでいた場所は川端康成先生旧跡として残っており、現在は川端康成さんの姪にあたる方が住んでいます。

代表的な作品

「伊豆の踊子」

「伊豆の踊子」

「伊豆の踊子」

写真は bookmeter.com より

第一高等学校在学中に訪れた伊豆でのできごとを題材にしており、主人公と当時の川端康成の心情がリンクしている作品。「孤独に悩む主人公が伊豆へ旅に行き、旅芸人の1人に恋をする」といった筋書きで、青年の心情の揺らぎが美しい文章で表現されている。身分違いの恋に翻弄される儚いストーリーは今まで数多く実写化され、彼の名を不動のものにした。なお、天城山中の狩野川渓流沿いにある静かな温泉宿である湯本館は「伊豆の踊子」を執筆した宿として有名。

「雪国」

「雪国」

「雪国」

写真は www.kinokuniya.co.jp より

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」から始まる新潟県の越後湯沢を舞台にした有名な作品。妻子ある島村と芸者の駒子、腸結核の行男、行男の婚約者の葉子の4人がさまざまに絡んでストーリーが展開する。なめらかで詩的な文章で日本の四季が見事に表現されており、川端康成独自の美しい文体が楽しめる。この作品での独特の自然描写と心理描写は彼の文学的到達点と見なされ、後のノーベル賞受賞に大きく寄与した。

「眠れる美女」

「眠れる美女」

「眠れる美女」

写真は bookmeter.com より

川端の後期を代表する前衛的な趣の作品で、デカダンス文学の名作と称されている。会員制クラブで睡眠薬を服用して眠っている若い女性と添い寝ができるサービスを提供する「眠れる美女」という名前の宿があり、若い女性の体を眺めながら、主人公が過去の女性との思い出を振り返っていくというストーリー。官能的な表現が艶かしくも美しく、国内だけでなく海外でも映画化されている。

活動年表

それでは川端康成さんの生涯を年代ごとに振り返ってみましょう。

1899年〜1910年

6月14日大阪市北区天満で、開業医川端栄吉とゲンの長男として誕生する。1901年1月、2歳の時に父が結核で死去。1902年1月、3歳の時に母も同病で死去。大阪府茨木市の祖父母のもとにひきとられる。1906年、7歳で豊川尋常小学校(現在の茨木市豊川小学校)に入学。病弱のため欠席が多かったが、成績はよく、作文に才能を示した。9月、祖母が死去。祖父と二人暮らしとなる。1909年7月、姉の芳子が死去。康成は病気のため葬儀に行けなかった。

1911年〜1920年

茨木中学校入学

茨木中学校入学

写真は ja.wikipedia.org より

1912年、13歳で大阪府立茨木中学校(現在の府立茨木高校)に入学。中学までの6キロの道を徒歩で通学し、生来の虚弱体質が改造される。1913年、中学2年の時に小説家を志し、文芸雑誌を読みあさって新体詩、短歌、俳句、作文などを書くようになる。1914年5月、15歳の時に祖父が死去。孤児となり、豊里村(現在の大阪市東淀川区)の伯父にひきとられる。「十六歳の日記」が書かれる。1915年、16歳で茨木中学の寄宿生となる。この頃から文学に熱中するように。1917年、18歳で茨木中学を卒業し、9月、第一高等学校に入学。同級には石浜金作、鈴木彦次郎、守随憲治、辻直四郎各氏らがいた。1918年、19歳の秋、伊豆に旅をして旅芸人一行と道連れになる(以後約10年間、毎年のように湯ヶ島へ行く)。1919年、今東光を知り、東光の父から心霊学への興味をうえつけられる。一高「校友会雑誌」に「ちよ」を発表。1920年7月、21歳で一高卒業。9月に東京帝国大学文学部英文学科に入学。

1921年〜1930年

東京帝国大学在学中に東大生の同人誌「新思潮」を創刊し「招魂祭一景」を発表、文壇に登場。当時からその新鮮な感性と独特の文体が注目される。大学卒業後、横光利一、今東光、片岡鉄兵各氏らと共に文学雑誌「文芸時代」を創刊。新感覚派の重要な拠点となり、この運動が日本の近代文学に大きな影響を与える。1924年3月、東大卒業。東京で作家の道を歩みはじめる。5月に茨木で徴兵検査。10月、同人誌「文芸時代」創刊。短編小説を数多く発表。新感覚派として注目される。1925年、「十六歳の日記」「孤児の感情」を発表。1926年「伊豆の踊子」を発表し、広く知られるようになる。「感情装飾」を出版。秀子夫人との生活が始まる。1929年、上野に転居。浅草によく通うように。「浅草紅団」を新聞に連載し、モダニズム文学へと移行。

「浅草紅団」

「浅草紅団」

写真は honto.jp より

1931年〜1940年

1931年12月2日、秀子夫人との婚姻届を提出、5日入籍。この頃、犬を多く飼う。1932年、小鳥を数多く飼う。新心理主義の影響を受けた「水晶幻想」、虚無的な作風の「禽獣」「末期の眼」を発表。その後、「雪国」を発表し、この作品が後に彼の代表作となり、ノーベル文学賞受賞の根拠の一つとなる。鎌倉に転居。

婚約の翌日に撮影された川端康成(左)と伊藤初代の写真

婚約の翌日に撮影された川端康成(左)と伊藤初代の写真

川端康成記念会提供

1941年〜1950年

1941年、健康のためよくゴルフをするように。「満州日日新聞」の招きで渡満。1942年、43歳の時に養女の件で高槻を訪れる。島崎藤村、志賀直哉、里見尊、武田麟太郎、瀧井孝作各氏と共に季刊「八雲」の同人となり、編集を受けもつ。「名人」を発表。1943年、秀子夫人とともに高槻を訪れ、従兄の子を養女にする。このことをテーマに「故園」を書く。「夕日」「父の名」を発表。1947年「哀愁」を発表。1948年、日本ペンクラブの第四代会長に就任。「川端康成全集(16巻本」の刊行が始まる。「反橋」を発表。1949年「しぐれ」「住吉」「山の音」「千羽鶴」「骨拾い」を発表。日本ペンクラブ会長として国際ペンクラブ大会を日本で初めて開催し、文化交流の促進に努める。

「千羽鶴」

「千羽鶴」

写真は www.amazon.co.jp より

1951年〜1960年

1952年、「千羽鶴」を刊行し、芸術院賞を得る。1953年、永井荷風、小川未明各氏とともに芸術院会員となる。1954年、「みづうみ」の連載が始まる。「山の音」を完結させ、野間文芸賞を受けた。十六巻本「全集」が完結。1956年、「川端康成選集」(全十巻、新潮社)を刊行。1957年3月、国際ペンクラブ執行委員会出席のため渡欧。モーリアック氏、エリオット氏らに会う。9月、第29回国際ペンクラブ大会を東京と京都で開催。1960年「眠れる美女」を発表。1958年、国際ペンクラブ副会長に選出。11月、胆石のため入院。「弓浦市」を発表。

1961年〜1970年

「古都」を執筆中、京都で暮らす。1961年、日本政府から文化勲章を受章。その後も積極的に若手作家の指導や評論活動を行う。1965年10月、茨木高校創立70周年記念式典に招かれて講演する。1968年、ノーベル文学賞を受賞。日本人として初めての受賞者となる。授賞理由は「日本の古典的美意識と深い抒情性を示した作品群に対して」受賞後の講演で、西洋とは異なる日本の美意識を強調した。12月16日、茨木市議会にて茨木市名誉市民に推挙される。1969年10月26日、茨木高校での文学碑除幕式に出席、茨木市役所で茨木市名誉市民章受章および記念講演を行う。

ノーベル賞受賞式 1968年

ノーベル賞受賞式 1968年

写真は ameblo.jp より

1971年〜1972年

1971年1月、三島由紀夫葬の葬儀委員長をつとめる。日本学研究国際会議のための準備、運動を託され、このため年末にかけて奔走し、健康をそこねる。1972年3月、盲腸炎のため入院、以後、健康がすぐれないまま過ごす。4月16日、逗子のマンションでガス管をくわえて命を断つ。72歳10ヶ月。遺書はなく、自殺した理由は今でもわからない。公にはされていないが、内面的な苦悩と孤独が彼の選択に影響を与えたものとされる。

まとめ

ノーベル文学賞受賞が決った翌日、取材に応じる川端康成=1968年10月18日

ノーベル文学賞受賞が決った翌日、取材に応じる川端康成=1968年10月18日

写真は withnews.jp より

川端康成さんは、日本の伝統的な美や悲しみを繊細かつ深い洞察力で描き、数多くの名作を残しました。15歳で孤児となった彼の深い喪失感が文学への没頭を促し、美への憧れを通じて精神的な慰めを見つけたのではないでしょうか。その悲しい背景が彼の作品に影を落とし、抒情的で虚無感に満ちた独自の文学世界を創出したと思われます。彼の文学は、西洋の文学手法と日本の伝統的な美を詩的に融合させ、国際的な文学の場で高く評価されました。新感覚派文学運動の中心人物として日本文学の古典的な美しさと現代性を統合し、その作品は世界中の読者から愛され続けています。彼の作品は時代を超えて、美と人間の感情の真実を私たちに問い続けることでしょう。なお、川端康成さんの業績を記念して設立された川端康成文学館では、彼の著書、遺品、原稿、初版本など約400点の貴重なアイテムが常設展示されています。さらに、企画展やアーティストによる展覧会も定期的に開催。興味がある方は、ぜひ訪れてその魅力を体験してみてください。