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長與專齋

長與專齋(ながよ・せんさい/長与 専斎)さんは、近代日本に「衛生」という用語と概念をもたらした医療・衛生制度の父です。衛生局初代局長として伝染病予防や上下水道の整備、そして近代医療制度の確立、医学の普及などに努めました。ここではそんな長與專齋さんのプロフィールを紹介しながら、その人物像に迫ります。

by  Mitsuyo Yamamoto

目次
Sensai Nagayo

プロフィール

長與專齋(Sensai Nagayo)さんは、幕末から明治にかけて日本の衛生行政の基礎を作った医学者です。1838年、代々漢方医として大村藩に仕える医学の素養が育つ家系に生まれました。藩校で学んだ後、大阪の緒方洪庵の適塾にてオランダ語やオランダ医学を学びます。1858年には福沢諭吉にかわって塾頭に。1861年、長崎でオランダ人医師ポンペ氏より西洋医学を学び、1868年に長崎精得館の病院長に就任。同年、同館は長崎府医学校(現在の長崎大学医学部)となり、学頭に任命されました。1871年に上京して文部省に入り、岩倉具視使節団の一員としてヨーロッパで医療制度や医学を調査。帰国後に最新の知識を駆使して医者の免許制度や医学教育などの「医制」の制定作業を行います。

1873年、文部省に医務局が設けられ局長に就任。1874年には東京医学校校長となりました。1875年、医務局が内務省に移管されるとき「衛生局」と改称し、初代局長に就任。以後19年間この職にとどまって、医者の免許制度、防疫や検疫制度の導入、国立衛生試験所や牛痘種継所の創設、コレラの予防、水道、下水システムの完備など、衛生行政の基礎を築きました。中央衛生会会長、大日本私立衛生会会頭、大日本医会理事などのほか、元老院議官、貴族院議員などを歴任。回想録に「松香私志」があります。なお、「衛生」という言葉は、彼によって作り出されたことで知られています。

プライベート

専斎さんのご両親は、父・大村藩医の長与中庵さん、母・大村藩士後藤の娘、園子さん。4歳のとき父親が亡くなったため祖父の俊達さんに引き取られ、9歳で養子となりました。祖父は19世紀初頭から種痘のことを研究し、天然痘の予防など全国に先駆けて大村藩医として大活躍した医師でした。

長與專齋の家族

長與專齋の家族

スクリーンショット adeac.jp より

専斎さんは長與家が侍医として仕えていた旧大村藩の名族・後藤家の長女・園子さんと結婚し、 5男3女に恵まれました。長男・称吉さんは長与胃腸病院を開業。長女・保子さんは松方正義氏の長男で十五銀行頭取の松方巌氏と結婚。次男・程三さんは横浜貿易で活躍した実業家。次女・藤子さんは15歳で鎌倉由比ガ浜沖にて溺死。三男・又郎さんは病理学者で東京帝大総長、三女・道子さんは医師・平山金蔵氏と結婚し、称吉の始めた胃腸病院の継承に貢献。四男・裕吉さんは戦後の共同通信や時事通信の基盤を作った同盟通信社初代社長。そして五男は白樺派の小説家・劇作家として知られる長与善郎さんです。

内田山の邸宅は和洋折衷で欧化主義の尖端をいっており、一五畳ほどの寝室やゆったりとした食堂から連なる「六角堂」という白薔薇を絡ませたベランダがありました。この六角堂からは専斎の書斎や日本座敷へと通じる廊下が設置されており、子どもたちとともに一家だんらんを楽しみました。また、夏になると鎌倉の別荘に一家で出向き、海水浴を楽しんだということです。

1894年の夏、長与家の次女、藤子さんが兄たちと共に鎌倉を訪れ、海水浴中に引き潮に流されて亡くなりました。この悲劇は家族に深い悲しみをもたらし、彼らは海を見ることさえ避けるほどの大きなトラウマを抱えることになりました。

専斎さんの大親友としては福澤諭吉氏の名前が挙げられます。緒方洪庵氏の適塾で知り合い、青春時代を一緒に過ごしました。

活動年表

それでは長與專齋(長与専斎)さんの生涯を年代ごとに振り返ってみましょう。

1838年〜1860年

1838年10月16日、肥前国大村藩(現・長崎県大村市)に代々仕える漢方医・長与中庵の子として生まれる。大村藩校・五教館で学ぶ。父祖の血をうけた専斎は早くから西洋医学を志す。1849年、11歳の時に大村藩・五教館生となる。1854年、大阪に出て緒方洪庵氏の適塾に入門。1858年、適塾の塾頭であった福澤諭吉氏が江戸に出た後、後任指名を受けて第11代塾頭となる。

適塾

緒方洪庵氏の適塾

写真は osaka-info.jp より

1861年〜1870年

1861年、長崎の精得館に入り、オランダ海軍軍医ポンペから医学とオランダ語を学び、自宅で通詞職の本木昌造に英語を学ぶ。1862年に結婚。1864年、藩の命令を受けて帰郷し大村藩侍医となる。1866年、再び長崎に赴き、ポンペの後任ボードウィンマンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。1868年、30歳の時に長崎医学校校長(現在の長崎大学)に就任。マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行った。

長崎大学 

長崎大学 

写真は www.facebook.com より

1871年〜1880年

1871年、33歳で文部省に入る。岩倉具視遣欧使節団医学教育調査の担当となり、衛生の制度を研究。ドイツやオランダの医学および衛生行政を視察し、「国民健康保護」の制度に注目した。1873年、帰国。文部省医務局長となり、輸入薬品検査のため司薬場建設を計画、衛生研究所を取り仕切る。1874年、牛痘種痘所を東京府下に設置。東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設。東京医学校長を務める。相良知安氏の草案を基に、医療制度や衛生行政に関する各種規定を定めた「医制76ヶ条」を公布。1875年、医務局が文部省から内務省に移管されると衛生局と改称、初代局長に就任。衛生行政の草分けとして医術開業試験制度・日本薬局方の編纂など、今日につながる種々の制度を創設。1877年、日本初の防疫規律コレラ予防心得を府県に通達し、コレラ対策に尽力した。東京大学医学部綜理心得(学部長代行)となる。

国立医薬品食品衛生研究所

国立医薬品食品衛生研究所

写真はja.wikipedia.orgより

1881年〜1890年

衛生学を導入して公衆衛生の普及に努めるが、内務卿の山縣有朋氏と肌が合わず、衛生局の業務に支障をきたす。1883年、国民の衛生教育を目的として半官半民の「大日本私立衛生会」(現在の日本講習衛生協会)を設立。1884年、神田の下水道工事を行う。水道改良工事を横浜、箱館、長崎、大阪、神戸、広島で始めた。1886年、コレラ予防心得を改正。1888年、東京市区改正委員に就任。1889年、大日本帝国憲法が発布。1890年、内務省衛生局に外国人衛生工学専門技師バートン氏を招き、全国衛生工事の審査および設計に従事させる。貴族院勅選議員に選任。

1891年〜1900年

1891年、衛生局長を退任。退任後も宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任。1892年、福澤諭吉氏、北里柴三郎氏、森村市左衛門氏と共に私立伝染病研究所設立。初代所長となり、伝染病予防と細菌学の研究に取り組む。1900年、兵庫、静岡にペストが発生したことを受けて、臨時検疫局を設立して予防撲滅に従事した。

1901年〜1904年

1902年9月8日、逝去。享年65歳。墓は東京都港区青山霊園。12月に「松香私志」が私本として百日忌に配布。後、1904年6月に普及版として刊行された。専斎が大村で過ごした屋敷の一部は「宜雨宜晴亭」と呼ばれ、国立長崎医療センター内に残されている。

宜雨宜晴亭(長與專齋 旧宅)

宜雨宜晴亭(長與專齋 旧宅)

写真は nagasaki-mc.hosp.go.jpより

功績とエピソード 

ここでは長與專齋さんに関するさまざまなエピソードをまとめています。

  1. 医師の試験制度

    明治政府の医療制度が確立されるまで、3万人近くいた日本の医師のほとんどは父子師弟相伝の漢方医でした。自分達の流派や家伝を頑固に守り、西洋のことは忌み嫌う風潮にあり、そのような状態のなかで試験を実施するのは非常に困難を極めたといいます。試験科目は物理、化学、解剖、生理、病理、内科、外科及薬剤学で、その後いくつかの改革を経て1883年に試験規則を医師免許規則に改めるなどして大体の基礎を固めました。

  2. 衛生という言葉

    専斎は衛生思想の普及に尽力しましたが、この「衛生」の語は「Hygiene」の訳語として専斎自身が採用したものです。専斎は「Hygiene」の原語を「健康」もしくは「保健」と露骨に直訳しても面白くないので、荘子の庚桑楚篇(こうそうそへん)にある「衛生の経」から字面高雅で音の響も良い衛生という言葉をみつけ、これを健康保護の事務に適用することにしたのです。

  3. ポンペに学ぶ

    専斎が塾頭になって間もなく、緒方洪庵が蘭学に見切りをつけ、これからは蘭学医ポンペの時代だと言うことを伝えます。専斎は長崎でポンペ松本良順、その後任のボードウィンマンスフェルトから、これまでの緒方洪庵から学んだ以上に、その後の日本の衛生行政を確立させていく上で多くの影響を受けました。

    ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト

    ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト

    スクリーンショット ja.wikipedia.org より
  4. ボードウィンに学ぶ

    1866年、再び長崎でポンペの後任ボードウィンに学ぶことができたのは、ある出来事がきっかけです。ある日、小鳥狩りに行った藩主が足をすべらせ猟銃が暴発して大怪我。経過が思わしくないため、専斎は長崎に行ってボードウィンに処理法を聞いて治療、快復。専斎はその功績により医学伝習の命を受け、学生をつれて長崎へ赴き、再び長崎で学べることになったのでした。

    アントニウス・ボードウィン

    アントニウス・ボードウィン

    スクリーンショット ja.wikipedia.org より
  5. 岩倉具視欧米使節団

    ヨーロッパ、特にドイツでの医療制度および衛生行政の視察での経験は、医療行政を確立するために大いに活かされました。政府が先頭にたって積極的に欧米文化の輸入と摂取に勤め、その結果驚くべき早さで日本の医療制度が確立。衛生行政組織、医事、薬事、公衆衛生のみならず、医学教育について定めた総合法典である医制が大きく変わりました。

  6. 大日本私立衛生会

    創立時のメンバーのひとりに北里柴三郎氏がいました。北里が東京医学校に学んだときの校長は専斎で卒業後は内務省衛生局所属となり、衛生局から派遣されてドイツに留学しましたが、同会から衛生制度調査の委嘱を受けていました。帰国直後の例会で伝染病研究所設立の必要性を訴えましたが、北里は留学中に脚気病因論について母校帝国大学に反論したために医学界の不興を買ってしまいます。専斎は適塾の同門で親友であった慶應義塾の福澤諭吉氏に相談し、福澤が援助の手を差し延べて北里を所長とする伝染病研究所が設立されました。

  7. 感染症対策への取り組み

    江戸時代にもコレラは流行しましたが、維新後も明治10年、12年、15年、19年と間欠的に流行。12年や19年には実に10万人以上の人命が奪われました。住民がコレラ菌に汚染された水を介して病気になることを問題視した専斎は、16年に東京でコレラの被害が最もひどかった神田に下水道を整備。その後、横浜、長崎、大阪、神戸、広島と整備を続け、全国的に水道事業をスタートさせました。また、「官」と「民」とが一緒に取り組むことが重要と考えました。

  8. 子息も医師に

    長与家は代々医師の家系ですが、その血は子どもたちにも受け継がれています。長男の弥吉さんはドイツで医学を学んだ後、東京に日本初の胃腸専門病院を開業。その腕は確かで評判が良く、胃潰瘍の治療のために夏目漱石氏も来院しています。また、父が設立した大日本私立衛生会(現・日本公衆衛生協会)の活動にも参加し、その取り組みを継承。三男の又郎さんもドイツに留学して病理学を学び、帰国後は東京帝大医学部の教授を経て、同大総長に。日本癌学会が設立されると初代会長に選出され、日本の癌研究を牽引しました。

まとめ

長與專齋の胸像

長與專齋の胸像

写真は nagasaki-mc.hosp.go.jp より

幕末から明治という日本の歴史が大きく動いた時代、長與專齋さんは医療の世界で一大革命を起こしました。伝統的な漢方から革新的な西洋医学へと舵を切り、日本の医療史を大きく動かしたのです。今日、日本がこんなにも清潔で安心して住める美しい国であるのは彼のおかげと言っても過言ではありません。專齋さんの柔軟な思考と的確な判断力、そしてその屈強な精神は、学びと尊敬の対象として、決して色褪せることはありません。私たちも彼のように、時代の変化に果敢に立ち向かい、新しい価値を創造する姿勢を見習いたいものです。