人物

津田梅子

津田梅子(つだ・うめこ)さんは明治時代の日本における女子教育の先駆者です。

女性の地位向上が日本の発展につながると信じて、男性と対等に力を発揮できる女性の育成を目指し、女性の高等教育に生涯を捧げました。日本初の女子留学生として渡米し、帰国後は現在の津田塾大学にあたる女子英学塾を創設。今では新5000円札の図柄にも選ばれています(2024年7月3日発行開始予定)。ここではそんな津田梅子さんのプロフィールを紹介しながら、その人物像に迫ります。

山本 光代

目次
Umeko Tsuda

プロフィール

津田梅子(Tsuda Umeko)さんは明治・大正時代の女子教育家です。1871年東京に生まれ6歳で岩倉使節団の最年少留学生・日本初の女子留学生としてアメリカに留学。1882年、17歳で帰国した後は教師として女子学生を教えます。1889年、24歳で再びアメリカに渡り、大学で生物学を学びました。そのままアメリカで研究者の道を進むかどうか迷いましたが、日本の女子教育の道を開くことこそ自らの使命であると悟り、帰国。1900年に女子英学塾(後の津田塾大学)を創設。英語能力や個性を尊重する教育に努め、女子高等教育の先駆者となりました。運営が始まってまもなく健康を害し、療養生活を送ったものの1929年、64歳で逝去。生涯独身を貫きました。

プライベート

津田梅子さんのお父様は元佐倉藩の藩士で農学者の津田仙(つだせん)さん。お母様は初子さん。次女として生まれ、当初の名前は「むめ(うめ)」。お父様は西洋に非常に大きな関心を持つ先進的な考え方の持ち主でした。また、そんな彼が通訳として属していた佐倉藩の藩主は「オランダかぶれ」と噂されるほど西洋的なものを積極的に導入していたということ。お父様自身が1867年に幕府の遣米使節の通訳として渡米し、アメリカの農業や男女平等の様子を目の当たりにしており、梅子さんがたった6才のときに「岩倉使節団」の一員として親元を離れ渡米することになったのも、どうやらそういった経験のあるお父様の意向だったようです。ちなみにこのお父様は農学者として多大な功績を残し、またキリスト教の信仰者として、青山学院(現在の青山学院大学)の創立に深く関わっています。

5人の女子留学生(右)梅子は右から二番目

5人の女子留学生(右)梅子は右から二番目

スクリーンショット ja.wikipedia.org より

女子留学生は5人でしたが、もちろん梅子さんは最年少で、知っていた英語は、「イエス」「ノー」「サンキュー」程度。英語の入門書とポケットサイズの「英和小辞典」だけでアメリカに旅立ったといいます。アメリカで順調に小学校を終えた後は女学校にも進み、フランス語やラテン語、数学、物理学、天文学などを習得。また、8歳のときには自らの意思でキリスト教の洗礼も受けています。11年の留学を終えて1882年に帰国した際には逆に日本語をすっかり忘れており、取り戻すまでに苦労したということです。

それまでの人生の半分以上をアメリカで過ごした梅子さんにとって、帰国後の日本での生活は戸惑いの連続。激しい男性優位の社会に辟易したそう。ともに留学した仲間達もアメリカで積んだ経験を活かして活躍する訳でもなく、大人しく結婚して家庭に入ってしまったことから大きく落胆します。もちろん梅子さんにも何度も縁談が持ち込まれましたが、「私は結婚ではなく仕事がしたいのです。話を聞くだけでもうんざりです。」と断って一生結婚をしないと誓ったそうです。

活動年表

それでは津田梅子さんの生涯を年代ごとに振り返ってみましょう。

1864年〜1872年

1864年12月31日、幕末の江戸(現在の東京都新宿区)で生まれる。明治時代に入ると、明治政府が使節団をアメリカへ派遣することが決まり、同行する女子留学生を公募。女子留学生の募集を知った父・津田仙は、これからの時代、英語は必ず武器になると考え、まだ6歳であった津田梅子を応募。北海道開拓使が募集した最初の女子留学生の一人として岩倉使節団に加わった。アメリカへ派遣される使節団のメンバーは、全権大使の岩倉具視木戸孝允大久保利通伊藤博文各氏など明治政府首脳が名を連ねた。一行を乗せたアメリカ丸は翌1872年1月にサンフランシスコに着き、シカゴを経由してワシントン近郊のジョージタウンに到着。梅子はランマン夫妻の家に預けられた。

1873年〜1881年

洗礼直後の津田梅子

洗礼直後の津田梅子

スクリーンショット www.tsuda.ac.jp より

1873年7月13日にフィラデルフィア近郊、ブリッジポートのオールド・スウィーズ・チャーチ(アッパーメリオン・キリスト教会)にてキリスト教の洗礼を受ける。ペリンチーフ司祭は当初、梅子に幼児洗礼を授けようと考えていたが、彼女がたいへんしっかりしていたことから成人の洗礼を授けた。ランマン夫妻のもとで現地の初等・中等教育を受け、アメリカの生活文化を吸収して成長する。日常会話、読み書きもすべて英語という環境で暮らすうち、次第に日本語より英語が自然に出てくるようになった。

1882年〜1888年

11月、帰国の途につく。アメリカで少女時代を送った梅子にとって、帰国後の日本はカルチャーショックの連続であった。梅子は日本女性の置かれていた状況に驚き、その地位を高めなければという思いを募らせ、国費留学生として自分が得たものを日本女性と分かち合いたいと考えていたが、機会はなかなかめぐってこなかった。伊藤博文の勧めで華族女学校の英語教師をするかたわら、自分自身の学校をつくる夢を持ち続けた。

1889年〜1892年

ついに再度アメリカへ行くことを決意し、ブリンマー大学に留学。大学では生物学を専攻し、1890年6月、トーマス・モーガン教授(1866-1945)との共同研究で蛙の卵の発生についての論文を執筆。(その後、論文は1894年にイギリスの学術雑誌に発表された。)在学中に自分の後に続く日本女性のための奨学金制度「日本婦人米国奨学金」委員会を設立。優秀な成績を収め、アメリカに残って科学者の道へ進むよう勧められた。また、アリス・ベーコン「日本の女性」出版を手助けする。

津田梅子、ブリンマー大学の学生

津田梅子、ブリンマー大学の学生

スクリーンショット www.tsuda.ac.jp より

1893年〜1899年

3年間の留学を終えて帰国。華族女学校の教師に復帰し、「女子高等師範学校」(現在のお茶の水女子大学の前身)の教授などを兼任。1898年、アメリカのデンバーで開催された「万国婦人連合大会」に日本代表として出席。そこで梅子は当時18歳のヘレン・ケラーと面会し、視力と聴力を失いながらも大学入学をめざして学ぶ姿勢に心を打たれる。その後、イギリスに向かい当時78歳のフローレンス・ナイチンゲールとも面会。彼女に励まされ、日本女性のための高等教育に力を尽くす決意を固める。

1900年〜1918年

ついに私立女子高等教育における先駆的機関のひとつである「女子英学塾」を創設。開校時にはアリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松各氏が協力した。また、ワシントン滞在中に出会った森有礼氏にも直接・間接に支援を受けた。入学者10名は東京以外からも、横浜、広島、群馬、鹿児島など全国から上京。開校式で、真の教育には教師の熱心、学生の研究心が大切であること、また、学生の個性に応じた指導のためには少人数教育が望ましいこと、さらに人間として女性としてオールラウンドでなければならないことを語った。この言葉は津田塾の教育精神として受け継がれることとなる。講義では当時の女性にとって数少ない専門職である英語教員の育成に力を入れた。1902年、39歳で名前を漢字に改め、梅子に。1903年、専門学校令に基づき、女子英学塾を社団法人に。2月、五番町へと校舎を移し、4月2日第一回卒業式を行った(卒業生は本科2名、撰科6名、計8名)。

開校時の協力者たち(左より 津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松)

開校時の協力者たち(左より 津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松)

写真は www.tsuda.ac.jp より

1919年〜1929年

体調を崩し、塾経営の基礎が整った頃の1919年に塾長を辞任。療養のために鎌倉に移った。1929年8月16日、鎌倉の別荘にて病没。享年64歳。絶筆は同日の日記に記された "Storm last night" であった。第2代塾長は星野あい氏に。また、女子英学塾は1948年に創立者の想いを継承し、「津田塾大学」と改称した。

功績とエピソード 

ここでは津田梅子さんに関するさまざまなエピソードをまとめています。

  1. 岩倉使節団に参加した理由

    岩倉使節団の目的は政府首脳による不平等条約の改正交渉、官僚や留学生による欧米諸国の制度や技術の調査にあり、伊藤博文氏や木戸孝允氏、大久保利通氏といった政府の首脳も同行。梅子は北海道の開拓を行っていた黒田清隆氏(後の内閣総理大臣)による尽力により、「開拓使派遣留学生」の一員となったといわれています。この時の女子留学生は乗船時の年齢が14歳(2人)を最年長に、11歳、8歳、6歳でした。

  2. ランマン夫妻

    津田梅子、渡米直後、7歳頃

    津田梅子、渡米直後、7歳頃

    スクリーンショット www.tsuda.ac.jp より

    梅子はワシントン近郊、ジョージタウンのランマン夫妻の家で暮らしました。順調に初等教育を終え、8歳からは私立の女学校でフランス語やラテン語を学び、本人の希望で留学が1年間延長されます。また、キリスト教の洗礼を受けたいと自分から申し出て、実現。ランマン夫妻は梅子を実の子のように可愛がり、必要なものや出来うる限りの環境を全て与え、見守り、その成長の芽を大きく育みました。これが梅子が他の女子留学生のようにホームシックにならずに、健やかにアメリカに滞在することができた大きな理由の一つであると考えられます。

  3. 日本の文化の尊重

    梅子はアメリカの文化に強い影響を受けていましたが、日本の着物をどの服装よりも美しいと考えていました。そのため、着物と袴を一生涯着用。女子英学塾の卒業生達によると、梅子はアメリカ育ちとは思えないほど、日本的で質素な生活をしていたということ。アメリカの先進的な考えを身に付ける一方で、日本の文化も尊重する公平な目を持ち併せていたということです。

  4. 一流の生物学者として

    1892年(明治25年)にアメリカの遺伝学者「トーマス・ハンス・モーガン」博士との共同研究により執筆した論文「カエルの卵の発生研究」は、イギリスの権威ある学術誌に掲載されました。モーガン博士が帰国した梅子に「アメリカへ戻ってきて欲しい」と手紙を書いているほど、その実力は本物。実際、モーガン博士は1933年、ノーベル生理学・医学賞を獲得しています。

    ブリンマー大学在学中の津田梅子(1889-1892年)

    ブリンマー大学在学中の津田梅子(1889-1892年)

    出典:ブリンマー大学
  5. 女子英学塾を創設

    梅子は人に物事を教える教授法についてはオゴウィゴー師範学校で学びました。そして、それまでの日本にあったお行儀作法の延長のような学校ではなく、少人数方式のレベルが高い教育を目指し、女子英学塾を創設。入学した女性たちに英語を学ぶ場所を与え、女性の地位の向上、女性の自立を追求しました。1903年、専門学校令によって国家の認める女子教育機関となり、1905年には塾の卒業生は無試験で英語教員の資格を取得できるようになってさらに名声を高めました。

  6. 厳しい授業

    梅子の授業はとても厳しく、きちんと辞書を引いて完璧に予習してくることは当たり前で、発音練習は何十回も繰り返させるなどスパルタ方式。そのあまりの厳しさぶりに脱落者も続出したといいます。しかし梅子は「女性に能力があると証明できてこそ、自由や責任、権利が与えられる」と、一歩も引きませんでした。

  7. 古い社会体制への落胆

    帰国後、男尊女卑など日本社会における女性のあり方そのものに落胆した梅子は、憤りの手紙をランマン夫人宛の手紙にこう記しています。「東洋の女性は、地位の高い者はおもちゃ、地位の低い者は召使いにすぎない」。

  8. 一生独身を貫く

    国民の90%以上が結婚していた当時、独身を貫いたのはもちろん仕事への献身もありますが、実際には伊藤博文氏ら政財界人の影響(芸者遊びや女性問題)で男性不信の傾向があったことが否めないようです。

まとめ

新5000円札(見本) 

新5000円札(見本) 

写真は hamarepo.com より

津田梅子さんはわずか6歳の若さで親元を離れ、言葉も通じない異文化の国へと送り込まれました。今の私たちには想像もつかないほどの途方もない苦労を経験されたことでしょう。彼女はそこで数々の困難を乗り越え、揺るぎない信念と使命感を胸に日本の女子教育の礎を築き、ついには大学を創立するに至りました。2024年に彼女の肖像が新5000円札に採用されることは、彼女の業績が現代にも広く評価されている証であり、その理念が時代を超えて生き続けていることを示しているのではないでしょうか。女性としての偉業だけでなく一人の人間としてのその深い志を我々は尊敬し、重んじるべきではないかと思います。