武満徹
武満徹(たけみつ・とおる)さんは日本と西洋の音楽を融合させたことでよく知られる、20世紀を代表する日本の作曲家です。電子音楽、映画音楽、舞台音楽、ポップソングなど幅広いジャンルの作品を生み出し、音楽監督やイベントの監修、エッセイの執筆など、多方面でアーティストとしての才能を発揮しました。ここではそんな武満徹さんのプロフィールを紹介しながら、その人物像に迫ります。
プロフィール
武満徹(Tōru Takemitsu)さんは1930年東京生まれ。幼少時代を父親の勤務地である満洲の大連で過ごし、1937年に小学校入学のために単身帰国。戦後、進駐軍のラジオ放送でジャズ、ドビュッシーやコープランド、さらにはシェーンベルクのクラシック音楽などを聴いて作曲家を志します。ほとんど独学で作曲を始め20歳で初めてピアノ曲「2つのレント」を発表。当時としてはあまりに前衛的だったため評論家から「音楽以前である」と酷評を受けますが、27歳のときに作曲した「弦楽のためのレクイエム」が後に来日したストラヴィンスキーに賞賛され、一躍脚光を浴びることとなりました。
その後、あらゆる革新的な手法を取り入れたり、琵琶と尺八とオーケストラのための「ノヴェンバー・ステップス」などといった日本の伝統楽器を組み合わせた実験的な作品を次々と作曲。「タケミツトーン」と呼ばれる独特の音の世界を深めていきます。音楽と並行して、近代絵画、演劇、映画、文学、特に抒情詩など他の芸術形式にも大きな関心を寄せ、他の作曲家やさまざまな芸術分野の代表者たちと「実験工房」というグループを共同設立。前衛的なマルチメディア活動でセンセーションを巻き起こしました。
名エッセイストとしても知られ、「音、沈黙と測りあえるほどに」などの多数の著書も。1973年から1992年までおこなわれた「Music Today」の音楽監督や、1986年に開始した「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」を監修する他、教育面でも活躍し、イェール大学で作曲を教え、アメリカ、カナダ、オーストラリアの大学から客員教授として多くの招聘を受けました。
多くの作品が音楽界で高評価されており、イタリア賞、軽井沢現代音楽祭第1位、東京現代音楽祭ドイツ領事館賞、日本芸術祭大賞、 日本芸術祭大賞、日本芸術院賞、フランス芸術文化勲章、ロサンゼルス映画批評家賞、ユネスコ・IMC音楽賞、グロウエマイヤー作曲賞、グレン・グールド賞など、数々の大きな賞を受賞しています。晩年にはオペラの創作にも取り組みましたが、1996年、65歳の時に膀胱ガンのため逝去。残念なことに唯一のオペラは完成をみませんでした。
プライベート
奥様は俳優の若山浅香さん、娘さんは音楽プロデューサーの武満真樹(たけみつ・まき)さん。娘さんによると、武満徹さんは早起きで、小さい頃、たっぷりの朝食を家族揃って食べていたそう。仕事が忙しくても午後7時できっぱりとやめ、夕食を3人でとり、後はビールを飲んだりテレビで野球を見たりしていたんだとか。性格はひょうきんで人間好きだったということです。映画が大好きで年に150~300本を見ていたとのこと。
自宅でふすまを開ければ一間という部屋にグランドピアノを置いて仕事をしており、その下で遊んでも、外から子どもの遊び声が聞こえても文句を言わず、飼っていた猫が仕事中にピアノの鍵盤の上を歩いても怒るどころかその音に耳を傾けて「なるほど」と納得していたというエピソードも。小、中学生の頃は家に友だちを連れて来ると、うれしくて突然踊り出したりするお茶目な一面も。
大学になると酒好きの武満徹さんはいつの間にか友達と飲み仲間になり、真樹さんが帰宅すると勝手に友だちと飲んでいる、なんていうこともあったそうです。また、娘さんに「勉強しろ」と言ったことはないそう。仕事については、曲の構想を練るときは長野県の山小屋風の家にこもり、構想がまとまれば東京の自宅に戻り譜面に書き写すというルーティンで作品作りに勤しんでいたということです。
友人は非常に多く、指揮者の小澤征爾氏、詩人の谷川俊太郎氏、映画監督の黒澤明氏、作家の坂上弘氏、山川方夫氏、他にも瀧口修造、篠田正浩、寺山修司、黛敏郎、勅使河原宏、加古隆、井上陽水、安部公房、石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、林光、鈴木博義、福島和夫、一柳慧、湯浅譲二、秋山邦晴各氏など、幅広い交友関係がありました。
代表的な作品
武満徹さんは、西洋音楽に東洋の伝統的な楽器や手法を取り入れ、独自の音の境地を切り開きました。現代音楽の世界的作曲家として有名ですが、黒沢明監督の「乱」「どですかでん」、勅使河原宏監督の「砂の女」「他人の顔」、小林正樹監督の「怪談」「切腹」などの映画音楽でも知られています。
- 弦楽のためのレクイエム
- ノヴェンバー・ステップス
- 水の音楽
- 嗤う男
- 五角形の庭に舞い降りる群れ
- Dodes'ka-Den
- ギターのための12の歌
- 篠田正浩監督「乾いた花」「はなれ瞽女おりん」
- フィリップ・カウフマン監督「ライジング・サン」
関連書籍
- 「音、沈黙と測りあえるほどに」(1971年・新潮社)
- 「音楽の余白から」(1980年・新潮社)
- 「夢の引用」(1984年・岩波書店)
- 「音楽を呼びさますもの」(1985年・新潮社)
- 「武満徹対談集ーすべての因襲から逃れるために」(1987年・音楽之友社)
- 「遠い呼び声の彼方へ」(1992年・新潮社)
- 「音・ことば・人間」(1992年・岩波書店)
- 「武満徹対談集ー歌の翼、言葉の杖」(1993年・ティビーエス・ブリタニカ)
- 「時間(とき)の園丁」(1996年・新潮社)
- 「武満徹対談集ー創造の周辺」(1997年・芸術現代社)
- 「サイレント・ガーデンー滞院報告・キャロラインの祭典」(1999年・新潮社)
- 「私たちの耳は聞こえているか」(2000年・日本図書センター)
- 「武満徹著作集」全5巻(2000年・新潮社)
- 石川淳、J・ケージ他著「音楽の手帖14武満徹」(1981年・青土社)
- 楢崎洋子著「武満徹と三善晃の作曲様式ー無調性と音群作法をめぐって」(1994年・音楽之友社)
- 遠山一行著「辺境の音ーストラヴィンスキーと武満徹」(1996年・音楽之友社)
- 斎藤慎爾・武満真樹編「武満徹の世界」(1997年・集英社)
- 船山隆著「武満徹ー響きの海へ」(1998年・音楽之友社)
- 岩城宏之著「作曲家武満徹と人間黛敏郎」(1999年・作陽学園出版部)
- 小沼純一著「武満徹ー音・ことば・イメージ(1999年・青土社)
- 長木誠司・樋口隆一編「武満徹ー音の河のゆくえ」(2000年・平凡社)
- 小林淳著「日本映画音楽の巨匠たち1 早坂文雄・佐藤勝・武満徹・古関裕而」(2001年・ワイズ出版)
- 辻井喬著「呼び声の彼方」(2001年・思想社)
- 谷川俊太郎著「風穴をあける(2002年・草思社)
- 武満徹・小沢征爾著「音楽」(1984年・新潮文庫)
- 武満徹・大江健三郎著「オペラをつくる」(1990年・岩波新書)
- 蓮実重彦・武満徹著「シネマの快楽」(2001年・河出文庫)
- マリオ・アンブロシウス文・写真「カメラの前のモノローグー埴谷雄高・猪熊弦一郎・武満徹」(2000年・集英社新書)
活動年表
1930年
10月8日東京で生まれ、生後1カ月で父の勤務先の大連に渡る。
1937年
単身帰国し、本郷の富士前小学校に入学。
1943年
京華中学校に入学。
1948年
清瀬保二氏に師事するも、実際はほとんど独学で作曲を始める。手さぐりのように楽譜を書き、鍵盤を書いた紙のピアノを持ち歩いた。
1950年
12月7日、東京でおこなわれた新作曲派協会第7回作品発表会で処女作であるピアノ曲「2つのレント」が藤田晴子氏により初演されるが、当時の音楽評論界の御意見番的存在だった山根銀二氏によって、「音楽以前である」と酷評された。
1951年
詩人の瀧口修造氏の下で総合的な芸術活動をめざすグループ「実験工房」を結成。前衛的手法に取り組む。
1956年
中平康監督映画「狂った果実」の音楽を担当。
1957年
東京交響楽団委嘱「弦楽のためのレクイエム」が上田仁指揮同交響楽団により東京で初演される。この作品は後日、来日したストラヴィンスキーよって絶賛され、武満の名を世界に知らしめることとなった。
1958年
弦楽アンサンブルのための「ソン・カリグラフィーⅠ」が2回現代音楽祭(作曲コンクール第1位を受賞。「黒い絵画」がイタリア放送コンクールでイタリア大賞を受賞。芸術祭個人奨励賞受賞。
1960年
「弦楽のためのレクイエム」が第1回東京現代音楽祭ドイツ大使賞を受賞。
1961年
「環リング」が第4回現代音楽祭でドイツ大使賞受賞。
1962年
黛敏郎、 一柳慧、 高橋悠治各氏とともに「グラフィック楽譜展」を開催。
1963年
「環礁」がパリのユネスコ/国際音楽評議会(IMC)の国際現代作曲家会議で第5位。パリで開かれた国際現代芸術祭日本館のための音楽を一柳慧氏と担当。
1964年
ハワイ大学の「今世紀の芸術フェスティバル」に招待される。デイヴィッド・チュードア音楽祭に参加した後ホノルル現代音楽祭に参加。エッセイ集を自費出版。
1965年
「テクスチュアズ」がパリのユネスコ/IMCの国際現代作曲家会議最優秀作品賞を受賞。
1966年
現代音楽祭「オーケストラル・スペース」を企画・開催。アーロン・コープランド氏が武満を「今日の大作曲家のひとり」と絶賛する。「武満徹の音楽」により芸術祭大賞受賞。
1967年
「地平線のドーリア」がアメリカ西海岸音楽批評家賞受賞。10月から6ヵ月間、ロックフェラー3世財団の招きにより渡米。「ノヴェンバー・ステップス」が小澤征爾指揮オーケストラらによってニューヨークで初演される。カリフォルニア州立大学客員教授となる。
1969年
オーストラリアのムジカ・ヴィヴァ「キャンベラ・スプリング」フェスティバルのテーマを作曲。
1970年
大阪で開催された万国博覧会の鉄鋼館「スペース・シアター」のための音楽プロデュース、音楽監督を務める。
1971年
マールボロ音楽祭ゲスト作曲家、パリ国際音楽週間「現代音楽の日々」テーマ作曲家を務める。エッセイ集「音、沈黙と測りあえるほどに」を出版。
1972年
カリフォルニア工科大学現代音楽シリーズ「エンカウンターズ」テーマ作曲家を務める。ヤニス・クセナキス、ベッツィー・ジョラス、モーリス・フルーレ各氏などフランスの音楽家たちとともにインドネシアのジャワ島とバリ島へ旅行。
1973年
ロンドン・ミュージックダイジェストシリーズのテーマ作曲家を務める。現代音楽祭「今日の音楽」の音楽監督、ハーバード大学客員教授に就任。
1975年
エール大学客員教授に就任し、同大学からサンフォード賞を受賞。トロント「ニュー・ミュージック・コンサーツ」シリーズゲスト作曲家、ブルックリン・フィルハーモニアの「ミート・ザ・モダン」シリーズゲスト作曲家を務める。「カトレーン」が芸術祭大賞受賞。
1976年
「カトレーン」が尾高賞受賞。トロント「ニュー・ミュージック・コンサーツ」ゲスト作曲家を務める。日本音楽家代表団の一員として中国を訪問。
1977年
ニューヨーク州立大学バッファロー校「現代音楽の夕べ」テーマ作曲家を務める。
1978年
国際現代芸術の出会いフェスティバル、国際現代音楽フルートコンクール審査員。 、アメリカ音楽国際演奏コンクール審査員、「日本の現代音楽と伝統音楽」シリーズ音楽監督を務める。
1979年
東ドイツ芸術アカデミー名誉会員となる。
1980年
バンクーバー現代音楽祭テーマ作曲家、カナダ国営放送作曲コンクール審査員を務める。日本芸術院賞を受賞。
1981年
「遠い呼び声の彼方へ!」が尾高賞を受賞。カルアーツ現代音楽祭ゲスト作曲家、ベルリン芸術週間「ジャパン・イン・ベルリン」ゲスト作曲家を務める。カリフォルニア大学サンディエゴ校客員教授に就任。モービル音楽賞受賞。
1983年
トロント「ニュー・ミュージック・コンサーツ」シリーズゲスト作曲家、ニューヨークフィルハーモニック現代音楽祭「ホライゾン」、コロラド音楽祭ゲスト作曲家、フランスのメシアン作曲コンクール審査員を務める。ハーバード大学、ボストン大学、エール大学、コロラド大学などで講義を行う。
1984年
オールドバラ音楽芸術祭テーマ作曲家を務める。アメリカ芸術文学アカデミー・インスティテュート名誉会員となる。
1985年
バンフセンター「現代音楽の日々」テーマ作曲家、ポンティーノ音楽祭ゲスト作曲家を務める。フランス政府より芸術文化勲章を受賞、朝日賞を受賞。
1986年
メルボルン・サマーミュージックフェスティバルゲスト作曲家、デンマーク放送局ゲスト作曲家、ロンドン・アルメイダ国際現代音楽祭テーマ作曲家、タングルウッドフェスティバル現代音楽祭ゲスト作曲家を務める。フランス芸術院名誉会員、サントリーホール開設記念国際作曲委嘱シリーズ監修者に就任。
1987年
映画「乱」でロサンゼルス映画批評家賞受賞。セント・ポール室内管弦楽団ゲスト作曲家。スコットランド現代音楽祭「ムジカ・ノーヴァ」テーマ作曲家、メルボルン交響楽団ゲスト作曲家、国際現代音楽協会アジア作曲家連盟作曲コンクール審査員を務める。
1988年
ダラスのサザン・メソジスト大学「ヴォイセス・オヴ・チェンジ」テーマ作曲家、第1回ニューヨーク国際芸術フェスティバル芸術顧問委員を務める。京都音楽賞大賞受賞。
1989年
東京国際映画祭、インターナショナル・コンペティション審査員を務める。日本文化デザイン会議賞国際文化デザイン大賞、第1回飛騨古川音楽大賞受賞。
1990年
ストックホルム・ニューミュージックフェスティバルテーマ作曲家、リーズフェスティバルテーマ作曲家、アヴィニヨンフェスティバル/サントル・アカンテテーマ作曲家、ハダースフィールド現代音楽祭テーマ作曲家を務める。リーズ大学名誉音楽博士、ダラム大学名誉音楽博士に就任。国際モーリス・ラヴェル賞受賞。
1991年
「ヴィジョンズ」をはじめとする一連の作品が毎日芸術賞受賞。都民文化栄誉賞、サントリー音楽賞受賞、ユネスコ/IMC音楽賞受賞。ロンドンのバービカン・センターを中心におこなわれた「タケミツ・シグネチュア」の芸術監督を務める。
1992年
「シアトル・スプリング」テーマ作曲家、「バンクーバー・ニューミュージック」ゲスト作曲家、ポーランド国際現代音楽協会主催「20世紀音楽の巨匠」シリーズ第1回テーマ作曲家を務める。ワルシャワにて「タケミツ・デイズ」が開催される。
1993年
初となるハリウッド映画「ライジング・サン」音楽を作曲。武生国際音楽祭テーマ作曲家、オールドバラ音楽芸術祭テーマ作曲家、ベルリン・フェスティバル、ベルリン芸術週間のゲスト作曲家、ウィーン・モデルンテーマ作曲家を務める。国際交流基金賞受賞。国際現代音楽協会名誉会員となる。
1994年
「ア・ウェイ・ア・ローン」が第36回グラミー賞最優秀現代作品部門にノミネートされる。日本放送協会放送文化賞、「ファンタズマ/カントス」ルイヴィル大学グロマイヤー作曲賞受賞。札幌のパシフィックミュージックフェスティバルテーマ作曲家を務める。アジア作曲家連盟名誉会員、イギリス王立音楽院名誉会員となる。
1995年
「ファンタズマ/カントス」が第37回グラミー賞最優秀現代作品部門にノミネートされる。第1回シュタード・シネミュージック・フェスティバルテーマ作曲家、東京オペラシティ芸術監督を務める。ロサンゼルス・映画音楽保存協会功労賞受賞。
1996年
オーレル・ニコレ氏の70歳を祝して作曲したフルートのための「エア」がスイスで初演される。この曲が武満徹の最後の作品となった。グレン・グールド賞受賞。2月20日、癌のため東京で逝去。享年65歳。2004年にペーター・ムスバッハ氏とベルリン国立歌劇場ウンター・デン・リンデンが「マイ・ウェイ・オブ・ライフ」を上演し、武満を追悼した。
まとめ
戦後の混乱期、ほぼ独学で努力し、世界的に認められる作曲家にまで駆け上った武満徹さん。空襲で自宅を失い、ピアノを購入する経済的な余裕もなく、紙に描いた鍵盤を持ち歩いたというエピソードには深く心を動かされました。他人の言葉に屈することなく自らの創造力を形に変える強靭な精神力と、何もないところから新たな芸術を生み出し続けるそのバイタリティは、音楽の世界に留まらず人間性においても模範としたい教訓があります。「タケミツトーン」と称されるゆったりとした流れと自然を連想させる和音は、忙しく毎日を生きる私たちに安らぎと癒し、そして明日に繋がる希望を与えてくれます。まだお聴きになったことがない方は是非一度、代表作から試聴してみてください。