人物

黒澤明

黒澤明(くろさわ・あきら)さんは「世界のクロサワ」と呼ばれる日本を代表する映画監督です。国境や時代を超えて高く評価される名作を撮り続け、映画界に多大なる影響を与えました。ここではそんな黒澤明さんのプロフィールを紹介しながら、その人物像に迫ります。

山本 光代

目次
Akira Kurosawa

プロフィール

黒澤明(Akira Kurosawa)さんは1910年3月23日東京生まれ。青年時代は美術家志望でしたが京華商業卒業後、1936年にPCL映画製作所(現・東宝)に入社。山本嘉次郎氏に師事し、1938年に助監督となります。1943年「姿三四郎」で監督デビュー。第二次世界大戦中は「一番美しく」など3本を監督しますが、敗戦によりGHQの指導下で、「わが青春に悔いなし」「酔いどれ天使」「野良犬」を監督。戦中戦後の青年像を鮮烈に描き、日本映画の旗手となりました。

1950年代には「羅生門」「七人の侍」などの異色の時代劇によって世界に知られる監督となります。黒澤明さんの作品はヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞した「羅生門」をはじめ、独特の映像世界を創造したことで世界中の映画ファンに感動を与えました。特に「七人の侍」の「農民が武士を雇う」という物語の着想とリアルなアクション描写、ダイナミックな画面構成は、イタリアの「マカロニ・ウェスタン」を生むきっかけとなり、さらにはハリウッド映画にも大きな影響を与えたといわれています。

映画『羅生門』のポスター

映画『羅生門』のポスター

写真は www.imdb.com より

痛快で娯楽性のある斬新なその作品は全世界の映画人に衝撃を与え、フランシス・コッポラ氏スティーブン・スピルバーグ氏ジョージ・ルーカス氏など、黒澤明さんに影響を受けたと公言する映画監督は数知れません。1985年に映画人初の文化勲章を受章。1990年にはアカデミー名誉賞を受賞。また、映画監督初の国民栄誉賞を受賞しました。1998年9月6日、脳卒中で東京都世田谷区成城の自宅で逝去。享年88歳。

プライベート

黒澤明さんは8人兄弟、四男四女の末っ子として生まれました。姉兄は、茂代さん、昌康さん、忠康さん、春代さん、種代さん、百代さん、丙午さん。お父様の勇さんは秋田県出身で陸軍戸山学校の第1期生。軍人出身の厳格な父親で体操教育に関心があり、日本体育大学の前身「日本体育会」の創立に参加、日本で最初に水泳プールを建設。お母様のシマさんは大阪の商家出身。

黒澤明の家族

黒澤明の家族

写真は ameblo.jp より

当時、「映画を見るなんて教育上あまり好ましくない」という風潮があったにも関わらず、お父様は映画によく連れて行ってくれたそうです。ちなみに連れて行かれた映画は英国のチャップリンや米国のグリフィス、ロシアのエイゼンシュタインなど洋画ばかりだったんだとか。黒澤明さんは幼い頃は画家志望で映画には全く関心がなかったらしく、映画の門を叩くのは26歳とやや遅め。また、お兄さんの丙午(へいご)さんの薫陶を受け、ロシア文学、特にドストエフスキーから大きな影響を受けており、それが1951年に「白痴」を映画化するきっかけとなったようです。

代表的な作品

  1. 姿三四郎(1943年)
  2. 一番美しく(1944年)
  3. 続姿三四郎(1945年)
  4. 虎の尾を踏む男達(1945年)
  5. 明日を創る人々(山本嘉次郎、関川秀雄との共同監督)(1946年)
  6. わが青春に悔なし(1946年)
  7. 素晴らしき日曜日(1947年)
  8. 酔いどれ天使(1948年)
  9. 静かなる決闘(1949年)
  10. 野良犬(1949年)
  11. 醜聞(スキャンダル)(1950年)
  12. 羅生門(1950年)
  13. 白痴(1951年)
  14. 生きる(1952年)
  15. 七人の侍(1954年)
  16. 生きものの記録(1955年)
  17. 蜘蛛巣城(1957年)
  18. どん底(1957年)
  19. 隠し砦の三悪人(1958年)
  20. 悪い奴ほどよく眠る(1960年)
  21. 用心棒(1961年)
  22. 椿三十郎(1962年)
  23. 天国と地獄(1963年)
  24. 赤ひげ(1965年)
  25. どですかでん(1970年)
  26. デルス・ウザーラ(1975年)
  27. 影武者(1980年)
  28. 乱(1985年)
  29. 夢(1990年)
  30. 八月の狂詩曲(ラプソディー)(1991年)
  31. まあだだよ(1993年)
黒澤明監督、「夢」撮影の合間を縫って

黒澤明監督、「夢」撮影の合間を縫って

写真は hitocinema.mainichi.jp より

関連書籍

「黒沢明全作品集」(1980年・東宝事業部)

佐藤忠男著「黒澤明の世界」(1986年・朝日文庫)

ドナルド・リチー著、三木宮彦訳「黒澤明の映画」(1991年・現代教養文庫)

黒澤明著「蝦蟇の油」(2001年・岩波現代文庫)

堀川弘通著「評伝黒澤明」(2003年・ちくま文庫)

活動年表

「世界のクロサワ」と呼ばれるようになったのは、「羅生門」のベネチア国際映画祭でのグランプリ受賞がきっかけです。欧米の名だたる監督の作品と競い合っての快挙であり、日本中を揺るがすビッグニュースとなりました。戦争で打ちひしがれた観客に前向きに生きる鮮烈なメッセージを送り、以後、人々に勇気と夢、そして大きな愛を与え続けました。それでは過去の作品群やその素晴らしい功績、受賞した賞の数々をみてみましょう。

幼少期〜青年期

1910年3月23日(水)東京に生まれる。1915年に森村幼稚園に入園。1916年に森村小学校に入学、黒田尋常小学校に転校。小学3年時に担任の影響で絵に興味をもつ。小学5年時から剣道や書道を習い、映画や寄席をよく見るようになる。1922年京華中学に入学。中学2年時に関東大震災に遭遇。1927年17才で京華中学を卒業し、画家を志して東京美術学校を受験するが不合格。川端絵画研究所へ通う。18才で第15回「二科展」入選。19才の時にナップ(全日本無産者芸術連盟)傘下のヤップ(日本プロレタリア美術家同盟のメンバーとなる。この頃より非合法紙である第二無産者新聞の地下活動員となるが、22才で脱落。24才で画家への才能に疑問を抱き他の仕事を考え始める。

1936年〜1945年

助監督時代の黒澤(左端)

助監督時代の黒澤(左端)

写真は ja.wikipedia.org より

26才でP.C.L(現・東宝)に、助監督として入社。映画の師である山本嘉次郎監督に出会う。27歳で助監督として「戦国群盗伝」「夫の貞操』「エノケンのちゃっきり金太」「美しき鷹」「雪崩」に参加。28才で「地熱」「藤十郎の恋」「綴方教室」「エノケンのびっくり人生」に参加、29才で「エノケンのがっちり時代」「忠臣蔵・後編」「のんき横丁」に参加。「馬」では山本嘉次郎監督、製作開始、B班監督を務める。30才で「ロッパの新婚旅行」「エノケンのざんぎり金太」「孫悟空/前編・後編」に参加。31才の時に伊丹万作監督に賞賛される。シナリオ「静かなり」が情報局国民映画脚本公募に入選、シナリオ「雪」が国策映画脚本募集に入選。1943年、「姿三四郎」が山中貞雄賞、国民映画奨励賞を受賞。35才で加藤喜代(女優矢口陽子)と結婚。長男の久雄誕生。

1946年〜1950年

1946年、戯曲「喋る」が平凡1月号に掲載。「わが青春に悔なし」が新映画読者賞を受賞。1947年、シナリオ「山小屋の三悪人」を「銀嶺の果て」と改題し、谷口千吉監督により公開。この映画で三船敏郎デビュー。「素晴らしき日曜日」が毎日映画コンクール監督賞受賞。1948年、映画芸術家協会に参加。「酔いどれ天使」が毎日映画コンクール日本映画賞を受賞。1949年、第8作「静かなる決闘」が大映で公開される。「野良犬」が芸術祭文部大臣賞を受賞。1950年、芥川龍之介「藪の中」に加筆し「羅生門」とする。この作品が第1回ブルーリボン4位脚本賞、イタリア記者全国連盟最優秀外国映画賞、アカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞。次回作シナリオ「白痴」を久板栄二郎と執筆。

1951年〜1960年

1951年、「羅生門」がベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞。1952年、「生きる」が毎日映画コンクール日本映画賞、九州フク二チ映画祭最優秀作品賞、芸術祭賞文部大臣賞映画部門、第3回ブルーリボン8位、第6回日本映画技術賞、国際映画教育文化委員会金メダルを受賞。1954年、「七人の侍」がベネチア国際映画祭銀獅子賞、「生きる」がベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。長女の和子誕生。1955年、「生きものの記録」が北海道新聞映画作品賞演出賞および脚本賞、シナリオ作家協会シナリオ賞、芸術選奨・故早坂文雄(日本の映画音楽に貢献)を受ける。1957年、「蜘妹巣城」が毎日映画コンクール男優主演賞(三船敏郎)および美術賞(村木与四郎)、リスボン映画祭特別賞、第1回ロンドン映画祭最も独創的な映画賞を受賞。「どん底」が毎日映画コンクール男優助演賞(三井弘次)、川崎市民映画コンクール最優秀作品賞を受賞。1958年、「隠し砦の三悪人」が第9回ブルーリボン作品賞、シナリオ作家協会シナリオ賞を受賞。1959年、「隠し砦の三悪人」がベルリン国際映画祭銀熊賞・監督賞・国際映画批評家賞を受賞。黒澤プロダクション設立。1960年、「悪い奴ほどよく眠る」が毎日映画コンクール男優助演賞(森雅之)、音楽賞(佐藤勝)、シナリオ作家協会シナリオ賞、東京労映ミリオンバール最優秀作品賞を受賞。8月に東京オリンピックの記録映画監督を依頼されてローマオリンピックを視察。帰途、ヴェネチア国際映画祭に出席する。

1961年〜1970年

1961年、「用心棒」が東京労映ミリオンバール最優秀作品賞・監督賞、シナリオ作家協会シナリオ賞、都民映画コンクール銀賞、第1回日本映画記者会員最優秀男優賞(三船敏郎)、大阪市民映画コンクール作品賞、高知県民映画作品賞、福岡県優秀映画選彰祭作品賞・監督賞、函館鑑賞会作品賞・監督賞、ベネチア国際映画祭主演男優賞(三船敏郎)、チネマ・ヌオーヴォ金賞(三船敏郎)、「生きる」がセルズニック・コールデン・ローレル賞(米)受賞。1962年、「椿三十郎」がアジア映画祭で撮影賞および録音賞などを受賞。1963年、「天国と地獄」が毎日映画コンクール日本映画賞、NHK映画祭最優秀作品賞・監督賞、第17回日本映画技術賞・録音賞を受賞。1964年に工ドガー・アラン・ポー賞、ゴールデンローレル賞も受賞。1965年、「赤ひげ」がマグサイサイ賞ジャーナリズム文学部門賞、朝日文化賞、第16回ブルーリボン作品賞、NHK映画祭 最優秀作品賞、ベネチア国際映画祭サン・ジョルジュ賞、国際カトリック映画事務局賞・ヴェネチア市賞、モスクワ国際映画祭映画労働組合賞を受ける。1969年、木下恵介、市川崑、小林正樹、黒澤明で「四騎の会」結成。1971年、「どですかでん」がモスクワ国際映画祭ソ連映画人同盟特別賞、アデレード国際映画祭作品賞・監督賞、ベルギー映画批評家協会グランプリを受賞。

1971年〜1980年

1971年、ユーゴスラヴィア国旗勲章を授かる。自宅浴室で自殺を図るが一命をとりとめる。1972年「黒澤明研究会」発足。1974年「蜘妹巣城」でロサンゼルス国際映画賞を受賞。1975年「デルス・ウザーラ」がパリ国際映画祭賞、アカデミー賞最優秀外国語映画賞受賞、1976年にNFFニューヨーク映画祭賞、アソシエーションフランセーズ賞、ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞、モスクワ国際映画金賞受賞。文化功労賞を授かる。1977年「白痴」がアメリカ映画芸術科学アカデミーロサンゼルス国際映画展覧会賞受賞。1979年、コッポラ、ルーカスが北海道勇払原野での「影武者」撮影現場を表敬訪間。1980年「影武者」がカンヌ映画祭でグランプリ。他にも英国アカデミー賞監督賞、フランス・セザール賞最優秀外国映画賞、ベオクラード国際映画最優秀芸術賞、ダウィッド・ディ・ドナテッロ賞監督賞、テキサス州ヒューストン映画祭最優秀作品賞、イタリア批評家賞最優秀監督賞、チリ映画祭最優秀映画賞、毎日映画コンクール日本映画賞大賞などを受ける。イスラエル政府より最優秀映画賞を授与される。

「影武者」撮影中の黒澤明

「影武者」撮影中の黒澤明

写真は hitocinema.mainichi.jp より

1981年〜1990年

1981年、イタリア共和国勲章勲二等を授かる。集英社ロードショー・シネマ大賞特別栄誉賞受賞。1982年、ベネチア国際映画祭50周年記念回顧上映で『羅生門』が歴代のグランプリ「獅子の中の獅子」に選ばれる。1983年黒澤フィルムスタジオ完成。1984年フランスのレジオン・ドヌール・オフィシェ勲章を受ける。1985年「乱」が文化勲章、コマンドゥール勲章(フランス)を授かる。他にもニューヨーク批評家協会最優秀作品賞、英国アカデミー賞最優秀外国語作品賞などを受賞。1986年、第58回アカデミー賞で「乱」の衣装を担当したワダエミ氏が「衣装デザイン賞」を受賞。1988年第6回川喜多賞(三船敏郎)受賞。1990年、第62回アカデミー賞で「特別名誉賞」受賞。第43回カンヌ国際映画祭で「夢」(シナリオ=黒澤明、製作=東宝・黒澤プロ、提供=スピルバーグ、配給=ワーナー・ブラザーズ)がオープニング上映される。後に第14回日本アカデミー賞音楽賞(池辺晋一郎)、アカデミー賞を受賞。

アカデミー賞での黒澤明

アカデミー賞での黒澤明

写真は jp.quora.com より

1991年〜1998年

1991年、「八月の狂詩曲」でソ連諸民族友好勲章を受ける。第46回毎日映画コンクール日本映画優秀賞。NHK衛星2TVで「巨匠・黒澤明のすべて」が含計35時間にわたり放映される。1992年、全米監督協会賞クノブイス賞、第4回高松宮殿下記念世界文化賞受賞。秋田県中仙町で「黒澤明映画祭」が開催。1993年「まあだだよ」が第17回日本アカデミー賞で助演女優賞(香川京子)・撮影賞(斎藤孝雄、上田正治)・照明賞(佐野武治)、美術賞(村木与四郎)受賞。3月23日フジTV系「スーパータイム」で倍賞美津子氏、露木茂氏と対談。4月2日と8日にTBS TV系「ニュース23」で筑紫哲也と対談。5月5日日本TV系「黒澤明と宮崎駿対談」放映。5月21日NHK衛星TV「たけしのビッグトーク」で北野武監督と対談。1994年、次回作に山本周五郎の「つゆのひぬま」と「なんの花か薫る」をベースにしたシナリオ「海は見ていた」を構想、宮沢りえ氏が候補にあがる。第10回京都賞を受賞。1996年「日本映画監督協会創立60周年記念フェスティバル」でビデオ「わが映画人生(黒澤明)」(インタビュア:大島渚)が公開される。1998年、国民栄誉賞を授かる。三船敏郎の本葬儀で長男久雄が弔辞を代読。1998年、脳卒中のため逝去。「黒澤明監督・お別れの會」が横浜市緑区の黒澤フィルムスタジオで9月13日午後2時より行われた。

黒澤家の墓

黒澤家の墓

写真は www.ishicoro.net より

まとめ

黒澤明監督の作品は没後25年を越えても世界中で愛され続けています。彼は映画芸術の境界を広げ、その情熱と業績で映画界における伝説的存在となりました。彼の遺した精神は、映画を愛する人々や次世代のクリエイターにとって大きなインスピレーションとなり、日本の文化としても誇り高い存在だといえます。黒澤監督の映画は、私たちに人としての理解を深める機会を提供してくれます。彼の作品群は時間を超えて、未来に輝く芸術の灯として存在し続けるでしょう。