安藤百福
安藤百福(あんどう・ももふく)さんは即席麺を開発した日清食品の創業者です。世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」や世界初のカップ麺「カップヌードル」など数々のヒット商品を発案、さらには宇宙食としてのラーメンを作るなど、生涯を通じて新しい商品の発明を続けました。ここではそんな安藤百福さんのプロフィールを紹介しながら、その人物像に迫ります。
プロフィール
安藤百福(Momofuku Ando)さんは1910年、日本統治下の台湾に生まれました。幼少時に両親を亡くし、台南市で繊維問屋を営む祖父母に育てられます。22歳の時、台北にメリヤスを日本から輸入する繊維商社「東洋メリヤス」を設立して成功。次第に事業を拡大し、日本に移り、立命館大学専門学部経済科を卒業。戦後帰化し、集荷問屋行を事業内容とする「日東商会」を設立。事業を拡大し、関西で実業家として知られるようになります。戦争で大部分の事業を失ってしまいますが、1948年食品関連を扱う中交総社(現在の日清食品)を設立しました。
1958年、世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」を販売。そしてこの製品がお湯を注ぐと2分で食べられる「魔法のラーメン」と呼ばれて、製造が追いつかないほどの爆発的ヒット商品に。さらに1971年には世界初のカップ麺「カップヌードル」を発売、日本で生まれたインスタントラーメンは世界食に生まれ変わりました。安藤さん自身は1981年に会長、2005年に取締役を退きますが、即席ラーメンの研究は続け、特に宇宙食の開発に注力します。無重力状態でも飛び散らないラーメン「スペース・ラム」は 2005年に国際宇宙ステーションで食されました。2018年に放送されたNHKの朝の連続テレビ小説「まんぷく」では、妻・仁子さんとともにそのモデルにも。その功績が評価されて、藍綬褒章、勲二等瑞宝章、勲二等旭日重光章受章など、多くの賞を受賞しています。
プライベート
安藤百福さんは兄が2人、妹が1人の4人兄弟。お父様は相当な資産家でしたが、幼い頃に両親を亡くし、台湾で織物を扱う呉服屋を営む祖父母に育てられました。両親がおらず、甘えたくても甘えられない環境で自分で自立して生活していくしかないという過酷な状況でした。祖父は厳格な人で、安藤さんが幼い頃から雑用などいろんな仕事を言いつけたので、自然と自立心が芽生えていったといいます。祖父の家では朝から晩までたくさんの使用人がせわしなく働いており、店に出入りする商人たちの活気のある光景を見て、「商売って面白いんだな」と感じたとのこと。
20歳頃、高等小学校時代に書生として世話になっていた人から勧められて、街に初めてできた図書館の司書に。そこで多くの書物を拾い読みし、知識を吸収したといいます。安藤さんが初めに事業を起こし独立したのは22歳の時。台北市永楽町に資本金19万円の「東洋莫大小(メリヤス)」という会社を設立し、日本内地から製品を仕入れて台湾で販売しました。「誰もやっていない新しいことをやりたい」と繊維業界の動きを調べるうちに、大発展する可能性のあったメリヤスに注目したのです。編み物のメリヤスを扱う仕事であれば、織物業を営む祖父と競合しないという配慮もあったようです。
事業が軌道にのってくると、これからの時代は学問を修めていないと肩身が狭いと思うようになり、立命館大学専門学部経済科(夜学)に入学。社員も増え、出張等も多く満足に通える状況ではありませんでしたが、大阪進出の翌年にあたる1934年、24歳の時に修了しています。また、幻灯機の製造、炭焼き事業、バラック住宅の製造、製塩や学校の設立などさまざまな事業を手がけます。時代の流れをいち早くキャッチしてすぐに事業化するベンチャー精神と、失敗してもあきらめないバイタリティーはこの頃から芽ばえていたのかもしれません。
1957年に理事長として執務にあたっていた信用組合が破綻した際、すべての財産を失ってしまいます。残ったのは大阪府池田市の借家だけという極限の状態で安藤さんは「失ったのは財産だけ」。その分、経験が血や肉となって身についた」と前向きに考え、自らを奮い立たせたといいます。そして、闇市のラーメン屋台に並んだ人々の姿と日本人が麺類好きであることを照らし合わせて考え抜き、無一文の生活から這い上がるため第一歩を踏み出します。「お湯をかけるだけですぐできるラーメン」を目標に、全くの素人である麺作りの研究をたった一人で1日の休みもなく追求し続けたのです。
次男の安藤宏基さんは慶應義塾大学商学部、アメリカ合衆国コロンビア大学留学などを経て、1973年に日清食品に入社。マーケティング部長時代には「日清焼そばU.F.O.」「日清のどん兵衛」などといったヒット商品の開発を手がけ、1985年、37歳の若さで社長に就任しました。「打倒カップヌードル」をスローガンに社内活性化に取り組み、ブランド・マネージャー制度による競争構造を導入するなど、大胆な社内改革を数多く行っています。
エピソード
安藤さんとラーメンとの出会いは終戦直後の大阪。闇市の屋台の周りには一杯のラーメンを求め、やせこけた人たちが寒空の下粗末な服を着て震えながら順番を待っており、「一杯のラーメンのために、人々はこんなにも努力するのか」と安藤さんが衝撃を受けたことに始まります。「食こそ人間にとって一番大事ではないか」と考えた安藤さんは1日平均4時間という短い睡眠時間で丸1年間、1日の休みもなくたった1人で研究を続けました。試行錯誤の末、お湯をかけるだけで食べられるという、画期的なラーメンが開発されたのです。
インスタントラーメンの発祥地は大阪の池田。安藤百福さんは池田の自宅の裏庭に立てたわずか10平方メートル程の小さな小屋で研究を重ねました。1年がかりでチキンラーメンの完成にこぎつけ、1日400食の製品を家族総出で作成。試作品を知人に食べてもらったり、海外へ送ったり、百貨店の食品売り場で試食販売を行ったりした後、知人から100万円の借金をして古い倉庫を借り、工場に改装。1日1200ケース生産でスタートを切り、当初は今一つの反応でしたが次第に注文が殺到。発売から4ヵ月後、商号を「日清食品」と改めました。「日々清らかに豊かな味を作りたい」という願いが社名に込められています。
世界で初めての即席麺「チキンラーメン」は、魔法のラーメンという触れ込みで飛ぶように売れました。また、渡米中の体験をヒントに「カップヌードル」を開発。これは、アメリカへ視察に出かけた時にスーパーの担当者たちがチキンラーメンを小さく割ってカップに入れ、お湯を注いでフォークで食べ始めたことにヒントを得たもの。このカップヌードルが誕生したことにより、日本で生まれたインスタントラーメンが世界食に生まれ変わりました。
カップヌードルが爆発的に売れるきっかけの1つとなったのは、1972年の「浅間山荘事件」です。厳寒の現地で警視庁機動隊員が湯気の上がるカップヌードルを食べているのがテレビに大写しになり、思いがけず全国の視聴者へのアピールになったといいます。その後、食糧庁長官からの相談を受けて開発、発売した即席米飯の「カップライス」は、原材料のコメが高価なため即席麺との価格競争に勝てず、失敗に終わりました。
宇宙食の開発を宣言したのは91歳の時。プロジェクトチームを結成し、自ら陣頭指揮をとって宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発がスタートしました。麺を一口で食べられる大きさや形にするなど無重力状態で食べるための様々な工夫が加えられた一方で、その基礎となったのは、1958年に自らが発明した技術「瞬間油熱乾燥法」でした。この瞬間油熱乾燥法は、奥さんが調理していた天ぷらから思いついたというのは有名な話です。
世界初の即席めん「チキンラーメン」を発明した時、安藤さんは48歳。一般的には、この年齢での再出発は遅いかもしれません。しかし安藤百福さんは「私が即席めんの開発に辿り着くには、それまでの48年間の人生は必要だった」と語っています。外国人記者から、「インスタントラーメンは体に良くないのではないか」という皮肉な質問を受けると、「私は創業以来毎日インスタントラーメンを食べてきましたが、90歳になってもこんなに健康です」といつも回答していました。実際、ゴルフが好きで、90歳を過ぎても年間100回以上のプレーをこなしていたそうです。
安藤さんの信念には「人真似をしないこと」というのがあり、「人の真似をせずに時代の一歩先を読み、よく考えて動く時は大胆に動く」というのが大切だということ。また、時代の先を読むには「自分の中に鋭敏なアンテナを持つことが必要」であり、「何事にも興味を持って観察すれば、大きな需要が暗示されていることに気づく」はずだと語られています。他にも、「人のやっていないことに挑戦することが大事」だと、若い人にエールを送られています。実際、1983年に私財を投じて(財)安藤スポーツ・食文化振興財団を設立し、青少年の健全な育成にも力を注ぎました。
関連書籍
- 日本の味探訪・食足世平(1985年・安藤百福著・講談社)
- 食の未来を考える 「郷土料理に学ぶ」食と健康フォーラム(1986年・安藤百福編・日清食品)
- 日本の味探訪・食足世平・続(1987年・安藤百福著・講談社)
- 私の創業時代(1989年・日経ベンチャー編)
- 苦境からの脱出・激変の時代を生きる(1992年・安藤百福著・フーディアム・コミュニケーション)
- 食足世平・日清食品社史(1992年・日清食品)
- 食創為世40周年記念誌(1998年・日清食品)
- 食は時代とともに(1999年・安藤百福著・旭屋出版)
- 魔法のラーメン発明物語・私の履歴書(2002年・安藤百福著・日本経済新聞社)
- 100歳を元気に生きる・安藤百福の賢食紀行(2005年・中央公論新社)
- 食欲礼賛(2006年・安藤百福著・PHP研究所)
- 安藤百福かく語りき(2007年・安藤百福著・中央公論新社)
- 日清食品50年史(2008年・日清食品)
- 日清食品創業者・安藤百福伝(2008年・日清食品)
- カップヌードルをぶっつぶせ!(2009年・安藤宏基著・中央公論新社)
- カップヌードル40年目の最強論(2011年・うれぴあ創刊号)
受賞歴
1977年 藍綬褒章
1981年 名誉市民称号(アメリカ・ロサンゼルス市)
1982年 勲二等瑞宝章
1982年 大阪発明大賞(発明協会)
1983年 紺綬褒章
1983年 グラン・クルス勲章(ブラジル政府)
1992年 科学技術庁長官賞「功労者賞」(科学技術庁)
1993年 農業試験研究一世紀記念会「会長賞」(農林水産省)
1994年 「館友」称号(立命館)
1996年 名誉博士(立命館大学)
1999年 名誉市民賞(大阪府池田市)
2001年 ディレクナポン勲章(タイ王国)
2002年 勲二等旭日重光章
2003年 秩父宮章(日本陸上競技連盟)
2007年 正四位
2008年 功労章(日本陸上競技連盟)
活動年表
1910年〜1950年
1910年3月5日、日本統治時代の台湾の台南県東石郡朴子街に生まれる。幼くして両親を亡くし、繊維織物の問屋業を営む祖父母に育てられる。家業を手伝いながら商売のイロハを学び、22歳のときに台湾で繊維会社「東洋莫大小(メリヤス)」を創業。翌年には日本・大阪に進出し、メリヤス問屋「日東商会」を設立。日東商会は日本と台湾間のメリヤス貿易で急成長するが、第2次世界大戦の勃発によりメリヤスの流通は日本軍の管理下に置かれてしまい、事業が頓挫。百福は戦争で炭の需要が高まると予想し、兵庫県で25町歩(約0.25平方キロメートル)の山を購入して炭焼き事業を開始。また、空襲で住居を失った人のためにバラック住宅の製造・販売も始め、軍用機関連部品の製造等、様々な事業を展開。1948年に「中交総社」を設立。名古屋に中華交通技術専門学院を設立。
1951年〜1960年
1958年、日清食品 (株) を創業、代表取締役社長となる。1959年、三菱商事、伊藤忠商事、東京食品が販売の特約代理店となり、強力な流通組織を得た。また、増産のため高槻本社工場を建設した。欧米型流通システムを持つダイエーなどのスーパーがオープンして大量販売ルートが開ける一方、新しいメディアであるテレビコマーシャルの利用など時代の追い風に乗り、創業5年目にして年商43億となる。
1961年〜1970年
1961年、チキンラーメンの商標登録が確定。1963年、東京・大阪証券取引所市場第二部に株式上場。1964年、64社が参加して「日本ラーメン工業協会」(現・社団法人日本即席食品工業協会)が設立、その初代理事長となり製法特許権を公開。加工食品で初めて商品に製造年月日を記載した。1966年、海外進出を図るため、欧米を視察した。欧米にはどんぶりと箸で食べる習慣がなく、カップとフォークで食せるものが必要と痛感。都カントリークラブ(現日清都カントリークラブ)設立、理事長を務める。1969年、カップヌードル開発に着手。1970年(財)食品産業センター理事、貿易会議専門委員となる。
1971年〜1980年
1971年、カップヌードル完成、発売にこぎつけた。海外商品別貿易会議議長に。1972年、東京・大阪証券取引所市場第一部に上場。
1971年〜1980年
1980年、カンボジア難民救済にインスタントラーメン10万食を寄贈。関西経済連合会常任理事となる。神奈川県と災害への救援活動に関する協定を締結。
1981年〜1990年
1983年、財団法人日清スポーツ振興財団(現・安藤スポーツ・食文化振興財団)を設立、全国小学生陸上競技交流大会などを後援し、指導者の表彰も行ってスポーツ振興に力を注いだ。1983年安藤スポーツ・食文化振興財団を設立、理事長に就任。1985年、経営陣の若返りを図るため息子の宏基に社長を譲り、代表取締役会長となった。食品産業中央協議会理事 となる。1987年、中国大陸へ麺料理の取材に出かける。
1991年〜2000年
漢方医薬研究振興財団会長に就任。1995年、阪神・淡路大震災では100万食以上の救援活動を行ったほか、新潟県中越地震、スマトラ沖地震など、災害時の救援活動に迅速に対応。1996年、「食創会」設立、最高顧問となる。1997年、世界ラーメン協会初代会長に就任。1998年いけだ市民文化振興財団会長となる。
2001年〜2007年
2005年、取締役退任、創業者会長に就任。退職金全額を安藤スポーツ・食文化振興財団に寄付、その後も毎朝誰よりも早く大阪本社に出社し、終業時間まで勤務した。社長を息子に譲ってからも、名誉職となっても、気持ちは経営者であり続けた。2007年、年明けも家族と屠蘇を祝い、2日にはゴルフを楽しみ、4日の年頭の仕事初めも風邪気味ではあったがつつがなく全うした。1月5日、急性心筋梗塞のため市立池田病院で死去。享年96歳。墓は大阪市北区同心町・浄土宗九品寺にある。
2011年
横浜みなとみらいに「カップヌードルミュージアム:正式名称・安藤百福発明記念館」がオープンした。
まとめ
安藤百福さんは、戦後の激動の時代にセンセーショナルな発明を投じた異才の起業家です。インスタントラーメンという未知の世界に足を踏み入れ、人々の食生活に革命を巻き起こしました。彼の人生は、ただ成功したビジネスマンの話に留まらず、いかにして困難を乗り越え新たな可能性を切り開くかという生き様のロールモデルでもあります。また、安藤財団を通じた教育や文化への支援活動は、彼のビジョンが単に事業にとどまらないことを物語っています。安藤さん自身が残した言葉、「人生に遅すぎるということはない。50歳でも60歳からでも新しい出発はある」というメッセージは、彼の生きる姿勢そのものを象徴しており、多くの人々に希望を与えるのではないでしょうか。91歳で宇宙食開発を夢見て実現するなんて、本当にバイタリティ溢れる素敵な生き方だと思います。ラーメンがお好きな方、安藤さんのことが気になった方は、ぜひカップヌードルミュージアムを訪れてみてください!